【2024年7月に新札発行】肖像画の人物に選ばれたのは?

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2024年7月3日に、新しい一万円札、五千円札、千円札がお目見えします。
これらのお札が新しくなるのは20年ぶりのことで、どんなデザインになっているか楽しみですね。新札に描かれるのは、いずれも今回初めてお札に登場する人物です。どんな人たちなのでしょうか。

文/こそだてまっぷ編集部

目次

一万円札の渋沢栄一

農家に生まれ、幕臣となる

渋沢栄一は、江戸時代末期の1840年に現在の埼玉県深谷市の農家に生まれました。渋沢家は、農業のほか、養蚕や藍玉という藍の葉からつくる染料などの商売を営んでおり、栄一も子どものころから商売感覚がみがかれていました。このころ、アメリカの黒船来航をきっかけに、幕府は長い間の鎖国政策から開国へと転換し、尊王攘夷を唱える志士が現れるなど、日本は激動の時代にさしかかっていました。
江戸へ出た栄一は、志士としての活躍を志しますが、やがていきづまり、武士として一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕えることになります。

渋沢栄一の生家(埼玉県深谷市)

ヨーロッパ視察と政府に任官

1867年、フランスのパリで開かれる万国博覧会に幕府の代表として慶喜の弟・徳川昭武が出席することになり、栄一が同行することになりました。フランスをはじめ、ヨーロッパ各国を視察した栄一は、進んだ社会制度や産業に関して多くのことを学びました。
ところが、栄一たちのヨーロッパ滞在中に幕府が倒れ、徳川昭武に帰国命令が出たことで、1868年に日本に帰ることになりました。
帰国した栄一はしばらくの間静岡で徳川慶喜に仕えましたが、明治新政府に招かれ、大蔵省で紙幣の発行などの仕事に携わりました。しかし、予算に関して政府要人と対立したため、4年ほどで辞任し、以後は民間の実業家として日本の近代化につくしました。

近代日本経済の父として

大蔵省を辞めた栄一は、1873年、日本初の銀行である第一国立銀行(現在のみずほ銀行の前身)を設立し、総監役となりました。これ以降も全国の多くの銀行の指導や支援にあたります。
また、富岡製糸場を設立し、日本の産業や貿易をさかんにしました。さらに、製紙会社、ガス会社、造船所、保険会社など、多業種の会社の設立に関わりました。生涯で500以上の会社の設立や経営に関わったといわれています。
一方で、世の中の弱者の救済にも力を注ぎ、養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)の運営なども手がけています。さらに、実学を教える機関として商法講習所(現在の一橋大学の前身)の運営や、女子の高等教育にもたずさわっています。
このように日本の経済のいしずえを築き、近代化を進めたことで、「近代日本経済の父」とたたえられています。

富岡製糸場(群馬県富岡市)

もっと知りたい人は…

渋沢栄一記念館埼玉県深谷市下手計1204

画像提供:深谷市

渋沢栄一の郷里にあり、多くの資料を展示する。講義室では渋沢栄一アンドロイドによる講義を見学できる(要予約)。

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五千円札の津田梅子

わずか6歳でアメリカへ

明治時代初期の1871年、新政府は諸外国との条約改正交渉のため、岩倉具視を大使とする使節団を欧米へ派遣しました。この使節団には、欧米の進んだ知識を身につけさせる目的で、5人の女子留学生がふくまれていました。その中で最年少だったのが津田梅子で、わずか6歳でした。
梅子はアメリカ・ワシントンD・C近郊の家庭で暮らしながら女学校に通い、初等・中等教育を受け、アメリカ文化の中で成長していきました。アメリカ滞在は11年間におよび、この間にキリスト教の洗礼を受けています。

日本への帰国から再留学へ

1882年、梅子は久しぶりに日本の地をふみます。ところが、幼いころにアメリカにわたったため、日本語をすっかり忘れていました。また、家に靴のまま上がろうとするなど、日本の習慣も覚えていなかったそうです。苦労も多かったようですが、梅子はアメリカで学んだことを日本で役立てたいと考えていました。また、アメリカと比べて女性の地位が低いことに驚き、女性の地位を高めたいという気持ちもありました。当時の上流階級の子女が学ぶ華族女学校(学習院女子大学などの前身)で英語教師をしながらも、自分自身で女子教育のための学校をつくりたいと考えました。
1889年、梅子は再びアメリカに留学してブリンマー大学に入学、生物学を研究しました。また、在学中に自分の後に続く日本女性のために奨学金制度を設立しました。

女子英学塾を開く

1892年に帰国した梅子は、華族女学校などで教えながら、女子高等教育のための学校の設立準備を進めました。当時は女子が学ぶ学校は、華族女学校をはじめ、家庭に入って家を守るための女性を育てる学校がほとんどでした。しかし、梅子がめざしたのは、高度で専門的な学問を学ぶための学校でした。
1900年、梅子は女子英学塾を開校します。開校式で梅子は「真の教育には、教師の熱心、学生の研究心が大切であること、学生の個性に応じた指導のために少人数教育が望ましいこと、人間として女性としてall-roundでなければならないこと」を述べています。
女子英学塾はその後、津田塾大学と名称を変えて現在にいたっており、梅子の建学の精神が脈々と受け継がれています。

津田塾大学 小平キャンパス 提供:津田塾大学

もっと知りたい人は…

津田塾大学 津田梅子資料室東京都小平市津田町2-1-1

津田塾大学の創立者である津田梅子と梅子を支えた人々に関する資料や、女子高等教育や日米の女子教育史に関係する資料などを幅広く収集、展示している。

千円札の北里柴三郎

医学の道を志す

北里柴三郎は、江戸時代末期の1853年、現在の熊本県小国町で、代々庄屋を務める家に生まれました。
1871年、18歳のときに古城医学所兼病院に入学し、オランダ人医師のマンスフェルトの教えを受けて医学の道を志しました。1874年に上京して東京医学校(現在の東京大学医学部)に入学、「医者の使命は病気を未然に防ぐことである」と述べ、予防医学を研究することを決意しました。

ドイツ留学でコッホに学ぶ

東京医学校を卒業した柴三郎は、内務省衛生局(厚生労働省の前身)に勤めます。1886年から6年間ドイツに留学し、病原微生物学研究の第一人者であるコッホのもとで研究にはげみ、多くの業績を上げました。そのひとつに、破傷風の原因となる破傷風菌の純粋培養に成功、破傷風の治療法を確立したことがあげられます。柴三郎が確立した療法は「血清療法」と呼ばれるもので、破傷風菌だけでなく、ジフテリアにも応用できるものでした。これらの業績により、北里柴三郎の名前は世界的に知られるようになりました。

破傷風の血清療法を確立したころの北里柴三郎
提供:学校法人北里研究所北里柴三郎記念博物館
画像:複写・転用・転載・複製を禁ずる

「近代日本医学の父」として

1892年に帰国した柴三郎は、福沢諭吉らの援助を受けて私立の伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所の前身、1899年に国立伝染病研究所となる)を設立し、伝染病予防と細菌学の研究に努めます。翌1893年には、日本初の結核専門病院を創立、さらに1894年には香港で流行したペストの原因調査に向かい、ペスト菌を発見しました。
1914年、新しく北里研究所を創立し、狂犬病やインフルエンザ、赤痢などの血清開発を続けるとともに、志賀潔、秦佐八郎、野口英世などの研究者を育成しました。
78年の生涯を通じ、日本の医学と医学教育に尽くした北里柴三郎は、「近代日本医学の父」と呼ばれています。

創立されたころの北里研究所(1915年竣工)
提供:学校法人北里研究所北里柴三郎記念博物館
画像:複写・転用・転載・複製を禁ずる

もっと知りたい人は…

学校法人北里研究所 北里柴三郎記念博物館東京都港区白金5-9-1

北里柴三郎記念博物館 展示室
提供:学校法人北里研究所北里柴三郎記念博物館
画像:複写・転用・転載・複製を禁ずる

北里柴三郎に関する資料の収集、保管、管理、展示をする。子どもから大人、専門家まで対応できるよう展示に工夫をこらしている。

新札が手に入ったら、お子さんとともに、描かれている人物について話してみてはいかがでしょうか。また、機会があれば記念館などを訪れ、それぞれの人物についてさらにくわしく学ぶのもいいですね。

この記事の監修・執筆者

編集部員 こそだてまっぷ編集部

未就学から中学生までの子を持つママ編集者を中心に、子どもの学びや育ちに関する様々な情報を日々発信しています!

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