「やばい。かっこよすぎる、おれ。おれは、このために生まれてきた。」
車いすテニス界に現れた新星・小田凱人(おだときと)が、パリ・ パラリンピックで史上最年少金メダリストとなり、表彰式の前におこなわれたテレビのインタビューで、興奮を隠そうともせず言った言葉です。
15歳でのプロ宣言からわずか2年でテニスの四大大会で優勝、世界ランキング1位の座を勝ち取り、世界に旋風を巻き起こした小田選手。
車いすテニスにかける思いのほか、幼少期のこと、家族の関わり、闘病、車いすテニスとの出合いから、パリ・パラリンピック決勝での息詰まる熱闘、そしてこれからのことまで、自伝的物語にまとめた『夢を持つ、夢中になる、あとは かなえるだけ 車いすテニス小田凱人』(Gakken)から、一部内容を抜粋してご紹介します。
「病気の人や、障害のある人もそうでない人も関係なく、だれもがあこがれるような、ヒーローになる」
小田選手が子どもたちへ伝えたいこととは。
子どもたちに勇気を与え、夢を持って進むことの大切さを伝える一冊です。
ネイマールのようになりたい
保育園に通うころから、凱人は友だちとサッカーをするようになりました。自転車はすぐに乗れるようになって、やがて、BMXにも挑戦しました。スケートボードに乗って遊ぶこともありました。
でも、凱人は友だちといっしょにできるサッカーが大好きでした。 小学校に入学すると、本格的にサッカーに取り組みます。最初は学校の少年サッカーチームに入り、その後、「選手コース」のあるFCディバインというサッカークラブに入団して、そこで練習をするようになりました。
凱人は、技術を覚えるために、同じことをできるまでくりかえす反復練習があまり好きではありませんでした。それでも、クラブの「Aチーム」で中心選手になって活躍することを目標に、一所懸命、練習に打ちこみました。 チームではいろいろなポジションをまかされましたが、凱人がいちばんやりたかったのは、攻撃の中心になるフォワードでした。
(ゴールを決めたい。そうして、みんなに頼られる選手になりたい。チームの中で目立ちたい。) その一心で、練習にはげみました。点を取ることだけでなく、凱人にはもうひとつ、やりたいことがありました。
(みんなと一緒のことをしているのは、嫌だな。ちょっと変わったプレーをしてみたい。) サッカーでは、チームの決まりごとや戦術を大事にして戦うことが基本ですが、 その中で、創造性あふれるプレー、意外性のあるプレーをすることも求められます。
凱人にとっては、決められたことをこなすのではなく、自分で工夫して点を取ること、相手が予想もしないようなプレーをすることも大事だったのです。
(自分のプレーで、みんなをおどろかせたい。) 凱人がやりたいことを、実際に見せてくれるサッカー選手がいました。ブラジルのネイマール選手です。 当時、スペインのチーム「FCバルセロナ」に所属していたネイマール選手こそ、 凱人が目指す、自由で、誰にも真似のできないプレーをする選手でした。
(こういうプレーがしてみたいな。)あまりに好きなので、お母さんにお願いして、 ネイマール選手と同じ髪型にしてもらったこともありました。
このころ、凱人は小学二年生になっていました。
体に起きた異変と入院
凱人は、サッカー選手を目指して毎日、ボールを追いかけていました。ある日のこと、サッカーの練習中に、凱人は左足にいたみを感じました。小学校二年生がまもなく終わろうという、三月ごろのことでした。
(筋肉痛かな?) 最初は、凱人も両親も、練習の疲れがたまったか、せいぜい筋肉を痛めたかくらいで、すぐに治るものと考えていました。ところが、痛みはなかなか消えてくれません。逆に、痛みを感じる回数が少しずつ増え、ズキズキするような痛さが、激しくなっているように思えました。
凱人の病気は「左股関節の骨肉腫」、胴体と足をつなぐ関節の骨に発生する悪性腫瘍、つまり、「がん」の一種です。
(早く病気を治して、サッカーがしたい。)サッカーへの思いが、凱人の心の支えでした。お医者さんから病名を聞かされ、 心配する家族の姿を見て、大変な病気であることはわかりました。それでも、お医者さんから、「サッカーはもうできません」という言葉は聞かされていません。
(早く治らないかな。) 凱人は、手術をして、きちんと治せば、またサッカーができるものと思っていました。病気への不安を持ちながらも、もとの体に戻ると信じていたのです。
サッカーしたら、おれの足がこわれる
手術は成功して、治療は次の段階に進みました。凱人は、抗がん剤治療をしながら、日常生活にもどるためのリハビリをおこなうことになりました。
単調なリハビリが続きます。動きによっては痛みを感じるので、ついつい、動きをおさえてしまうこともありました。
この頃、思うように体を動かせない凱人に、ある考えがうかんできました。
(もう、サッカーはむずかしいかもしれない。) もう一度、みんなとサッカーをすることを目標に、つらい治療にも耐えました。元気になれば、またボールをけることができる。それをはげみに、入院生活を送ってきたのです。でも、今の体の状態では… …。 心配な気持ちを抱えたままでは、一所懸命にリハビリに取り組むのはむずかしいでしょう。
病室でお母さんと一緒にサッカーの試合を見ているときのことです。凱人の口から、こんな言葉が出てきました。
「おれ、サッカーは、もう無理だな。サッカーしたら、おれの足がこわれる。大事な足、手術をしてもらった足が… …。」
凱人の目に、なみだはありませんでした。だれかを恨んだり、ふさぎこんだり、ということもありませんでした。ありのままに、つらい現実を受け入れたのです。 すぐに受け入れるのはむずかしいとしても、少しずつ、時間をかけて… …。
車いすテニスとの出合い
そのうちに、凱人の運命を大きく変えるできごとがありました。名古屋医療センターでは、一か月に一度、パラスポーツの体験会を開いていました。このイベントで、凱人は、初めてスポーツ用の車いすに乗りました。
(ずんずん進むな。) 凱人は、その乗り心地におどろきました。ふだん、病院の中で乗る車いすとはちがって、少しこぐだけでスピードが出ます。また、「ハ」の字になったタイヤのおかげで、車いすをターンさせやすいのです。
凱人は、車いすに乗るのが楽しくてたまりませんでした。
小さいころから活発で、BMXも乗りこなしていた凱人にとって、スポーツ用車いすに乗るのは、それほど難しいことではありませんでした。スポーツ用車いすは、曲がったり、回ったりする操作がしやすかったので、乗りこなす難しさよりも、楽しさが上回っていました。
まさしく、自転車やスケボーに乗るときと同じ感覚です。上手に操作すれば、 車いすがその通りに動いてくれるので、楽しくてなりません。「ハ」の字にタイヤがついた車いすは、「マシン」という言葉がぴったりでした。
(車いすって、かっこいい。これだな!)こうして、スポーツ用車いすは、凱人にとって大事な仲間になったのです。
車いすを使ってスポーツができるとわかった凱人は、自分も挑戦してみたいと強く思いました。 もともと、部屋の中で静かにしているのは、好きではありません。凱人はすぐにパラスポーツをインターネットで検索し、次々と動画を見ていきました。
(これだ!) その映像を見た瞬間、強く惹かれるものがありました。 凱人の心をがっちりつかんだのは、車いすテニスの国枝慎吾選手でした。動画は、 2012年ロンドン・パラリンピックの車いすテニスで、国枝選手が、金メダルを取ったときのものでした。
これが、凱人の車いすテニスとの出合いでした。
目標は2024年のパリ・パラリンピック
退院するころには、凱人の気持ちは決まっていました。
(車いすテニスプレーヤーになる。) 国枝選手のように、自由自在に車いすをあやつり、胸のすくようなショットを決めるテニス選手になる。そして… …。
(世界一になる。)
こうして、凱人の車いすテニスへの挑戦が、本格的にスタートしました。
パリ・パラリンピックの激闘
金メダルが決まった瞬間、凱人はラケットを放り投げ、フィギュアスケートのスピンのように、その場で車いすをターンさせました。次に凱人は、意外な行動をとりました。車いすのタイヤを外したのです。車いすはバランスを失い、凱人はコートにたおれてしまいました。
いいえ、凱人は自分からコートにたおれこんだのです。このローラン・ギャロスで行われる全仏オープンでは、優勝した選手がコートであおむけになり、土まみれになって喜びを表すのが、約束ごとのようになっています。 14 回も優勝したラファエル・ナダル(スペイン)も、必ずそうして優勝を喜びました。
しかし、車いすテニスで、こんなやり方で喜びを表す選手はいませんでした。
(これを最初にやってみたい。)
凱人は、優勝して、赤土にまみれて喜ぶ自分の姿を、あらかじめ想像していたのです。その凱人のもとにヒューエット選手が近づき、二人は握手をしました。こうして、試合後に健闘をたたえあうのがテニスのマナーです。
試合の解説をつとめた国枝さんによるインタビューでは、こんな答えを返しました。
「何かを変えるつもりでここに来ました。変わってくれると信じていました。(試合を見て)テニスを始めてくれる子がいるかもしれない。これからも自由にやって、その姿を、もっと多くの人に見てほしいと思います。」
金メダルは目標のひとつでしたが、それ以上に、凱人には、目に見えない目標がありました。
自分らしくあれ。
これまで、何ごとにおいても、凱人が大事にしてきたのは、「自分らしく」ということです。 興味を持ったことには、なんでも挑戦してきました。自分がやりたいと思ったことをやってきました。これからも、自分のやり方を貫くつもりです。
(メダルよりも、自分らしく。) 「自分らしく」という目標を達成できれば、もうひとつの目標である金メダルを、 この手につかむことができる。凱人はそう思っていました。
そうして、凱人は初めて出場したパラリンピックで、金メダルを手にしました。 小学生の頃にえがいた大きな夢を叶え、「子どもたちのヒーローになる」という目標を達成したのです。
小田凱人が子どもたちに伝えたいこと
初めて四大大会で優勝した、2023年全仏オープンの表彰式後の記者会見で、記者が凱人に質問しました。
「幼い頃に、病気でとてもつらい思いをされたと思います。それを乗りこえて、四大大会で優勝するという夢をかなえた今 、どんなことを子どもたちに伝えたいですか。」
凱人は、こう答えました。
「まず、病気を乗りこえたように見えるかもしれませんが、乗りこえたという感情とは、少し違います。 病気になったことは、あくまでも自分の人生の分岐点でした。それは乗りこえるべき「かべ」ではありませんでした。ぼくは、くじけなかったし、病気になったというだけで、病気は、自分が闘うようなものでもなかったと思います。
自分では、それをプラスに考えました。車いすテニスは、障害がないとできないスポーツです。そういった意味では、本当に限られた人しかできません。病気になり、障害を持ったからこそ、車いすテニスができている。
そして、ぼくが今こうして注目されているのだと思います。
ですから、病気を乗りこえたっていうよりは、病気はあくまでも転機だったという感覚です。 ただ、なかには病気になることをマイナスに感じてしまう人はいると思います。自分も、そういうふうに思ったこともあるし、今でもそう思うことはたまにあります。
だけど、車いすテニスをしているときは、それをまったく感じません。
病気になったからこそ、車いすテニスができているので、このことについて、自分はラッキーだったと思っています。だから、自分の病気に対する気持もちを、多くの人に知ってほしいのです。
ぼくは骨肉腫なので、骨肉腫にかかった人たち、なかでも少年、少女のみなさんには、ぜひ、そんなに悪いことばかりじゃないよって伝えたいと思っています。自分のプレーでも伝えたいし、発言でも伝えていきたいです。
何か、頑張ることが一つでもできれば、変わっていくと思います。
ぜひ、今回のぼくの優勝や、これからの活動を見てもらって、病気もそんなに悪いことばかりじゃないなと、とらえてほしいと思います。」
(スポーツに、すくわれたな。)
凱人は、車いすテニスとの出合いをふりかえるたびに、そう思います。 凱人の場合は車いすテニスでしたが、もちろん、車いすバスケットボールでも、 パラ陸上競技やパラ水泳でも、どのパラスポーツでも同じです。 スポーツでなくてもいいでしょう。
今、病気と闘っている子どもたちや、悩みを持っている子どもたちには、夢中になれること、自分が一番頑張れる何かを、見つけてほしいのです。
初めて世界一をつかんだ瞬間から時間が経ち、凱人の考えは少し変わりました。今、凱人が目を向けるのは、病気の子どもや障害のある子どもたちだけではありません。
(病気の人や、障害のある人もそうでない人も関係なく、誰もが憧れるような、ヒーローになる。)
これが、今の凱人の目標です。自分が戦う姿を見て、何かに挑戦しようと思ってほしい、その目標に向かって歩き始めてくれたらいい。それが、車いすに乗ったヒーロー、凱人からのメッセージです。
小田 凱人(おだ ときと)
2006年5月8日、愛知県生まれ。
9歳のときに骨肉腫になり車いす生活に。
10歳から車いすテニスを始め、数々の偉業を最年少で達成。
2023年、全仏オープンでグランドスラム史上最年少優勝(17歳33日)と最年少世界ランキング1位(17歳35日)を達成し、ウィ ンブルドンも制覇。
2024年には、全豪オープン優勝、全仏オープン2連覇。
さらにパリ・ パラリンピックで史上最年少金メダリストになり、名実ともに、車いすテニス界をけん引す るトッププレイヤーとして活躍している。
東海理化所属。
世界シニアランキング1位、世界 ジュニアランキング1位(2024年11月25日現在)
この記事の監修・執筆者
テニスライターとして雑誌、新聞、通信社で執筆。国内外の大会を現地で取材する。四大大会初取材は1989年のウィンブルドン選手権。主な著書に錦織圭との共著『頂点への道』 (文藝春秋)。現在、日本テニス協会の広報部副部長を務める。
「夢を持つ、夢中になる、あとは かなえるだけ 車いすテニス小田凱人」(Gakken)が発売中。
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